連載コラム

「ーヘイトスピーチ その①「シナ人、さっさと台湾へ帰れ!」と言われてー」

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2023.04.16

 2014年8月13日水曜日の記録。

 「ヘイトスピーチとかが問題になっている」と新聞、テレビで放送されている。

 両親が日本へ来て生き延びて、お陰で私の生命が誕生したので、「シナ人」「チャンコロ」などの呼び名は私は別に気にならない。内心「ああ又か?」で片付くのだ。

 第一東京都のトップの人が使うくらいのものだ。私は医師の先輩も息子の担任がPTAで話していたのでも聞いて、日本の社会とはそういうものだと考えていた。

 私の連れ合いがアメリカへ行ってしまい、仕事で根を生やしてしまった私が、日本を離れるのに時間がかかった。その結果が別居生活の長期化だった。

 「死ね!」「まだ生きとるのか?しぶとい野郎だ‼」などと聞かされ、「一族皆地獄行だぞ。待っていろ!」等電話や面前で言われたこともあった。言っておられる方は紳士だし、多分家庭を持って、立派なお父さんで一生懸命仕事をしておられるのだろうと想像した私だった。

 私の日本での生活環境はそんなものであるが、それは私が物心つく頃から両親が生活していたのとあまり変化がない。そんな中両親は必死に7人の子育てをしてくれた。

 私の受けるヘイトなどは別にどうという事でもないレベルだった。99%の人たちは素晴らしかったしお陰で私は限りなく現実を学習できた。そして日本の人々のお陰で、今の私がある。

 十数年ほど前、私が「シナ人、さっさと台湾へ帰れ‼」と電話で怒鳴られたのは24歳の私の患者さんからだった。その女性は中学2年生の頃より、家庭内暴力がひどく、事あるごとに家の中でバットを振り回していた。

 家族は父親以外は別の所で生活し、本人は精神科に通院し、服薬中、何度も入院退院を繰り返していた。私の所へ連れてきたのはお父さんだった。その時私は自費診療医で忙しくしていたし、日本の伝統食について、まだ学習していなかった。

 あれこれ精神科の服薬を続けていても時々警察沙汰になるそうで父親もよほど困っていたのだろう。思い余って連れてきたと思う。その時女性はもう23歳になっていた。立派な大人だ。

 精神科の患者さんでも私は特に変わらない。あれこれ漢方薬の処方を考えるだけだ。でもあまり漢方薬は飲みたくもなさそうで私は無論無理強いはしなかった。主に話を聞くことに時間を割いた。

 その日も予約なくいきなり来たのだ。いろいろ話を聞いている間に気付いたことがあった。

 彼女は何度も「嫌なこと、悪いことは全て他人の所為だ!」と考えていた。だからすぐ腹が立ち、バットを振り回してしまうと判った。彼女の顔は見るからに、仁王様の様に怖ーい形相で、両目はつり上がり、口は「への字」になっていた。私は子どもの頃に母に「毎日鏡の前に立って最高に良い笑顔を作れ。他人に見せる顔だよ。泣きたくなったら布団をかぶって一人で泣きなさい」と教えられて育った。顔は自分が作るものだと考えていた。笑い学会の昇先生が、嘘でも良いから「笑顔で…」と指導してくれている。

 私は独学であるが顔相学、手相学、音声学を学んできたし{易学は手が出せていない}、やはり東洋医学では「顔」は大切なのだ。その日私は深く考えず、彼女の自家カルテに顔造りの方法を絵画で書いて説明した。そして彼女は「お金は次に払う」と言って帰った。

 その夜いきなりの彼女からの怒鳴り声の「シナ人台湾へ帰れ!」の電話だった。慣れている私なのでその後に続く父親の「告訴する!」というのにも驚きは無い。父親は「娘のプライドを傷つけた!」というのだ。

 私がどう返事したか忘れてしまった。