2022.12.14
まず、初めにお断りしておく。私の考え方が正しいか?正しくないか?を私は考えていない。ただ「私はこう考える」という事だけのことだ。人は一人ずつ頭を持っている。パスカルが昔「人は考える葦である」とか、知ったのは私が10歳の頃である。
私がなんでも母の言うことを反発することなく、すぐ「ハイ」「ハイ」と返事をしていたらしく、母に叱られたのもその頃だった。ある時、板の間に正座させられ
「あんたは私の言うことを何でもすぐハイと答える。お母ちゃんが『あんたは死ね!』と言ったら、あんたは死ぬのかえ?お母ちゃんだって間違えることがある。自分の頭でよく考えて、それから返事をして実行しなさい」
という訳である。私はとにかく頭の回転が遅く、十言われてすぐ理解できるのは二から三ぐらいかも知れない。そしてじっくり考え込んでしまう。何十年と同じ一つの事を考えてしまう。そして自分で納得すると、自己満足してしまう。
たとえば今の日本の皆さんがどのくらい考えに入れているかわからないが、「東京裁判」という本がある。私は同じテーマの本でもいろんな種類のものを読む癖がある。パル判事が何故、「日本は無罪」と答えたのか?私が読み始めたのは17歳の時であるが、このあと繰り返し読んでも、パル判事の言葉の意味が理解できなかった。そして80歳になり、やっと理解納得出来た気がしたのだ。
いまだに、意見は分かれるだろう。でも言葉は一人ずつの心の表現の手段であり、私は人は「地霊」と「言霊」で育っていると考えている。歴史を学ぶと正しいとか、正しくないと議論する学問でないと判ると思う。歴史は「本当の事が大切」なので「その時、その場所で、何が起こっていたのか?」ありのままを知ることであると思う。世の中全て陰陽で成り立つので、人、その集りの集団(大きさはピンキリ)すべて見える部分と見えない部分がある。
過去の人々のマイナス部分を知ることも大切であるが、子孫が過去をなじっても過ぎ去りしことは、修正できない。過去をありのまま知って、子孫としてご先祖のマイナスは二度と繰り返さないことだ。子孫はご先祖とは別人であり、いまを生きるとは過去から正しく学び、現在に合わせて「信頼関係」を築きながら時を過ごす以外にない。現代のこの瞬間だって見えるもの見えないことがいっぱいある。見えないモノでも、「感じ取る」必要がある。「過去はすべて感謝、現在は信頼を未来には希望を」とおっしゃった獨協大学創立者 天野 貞祐先生のお言葉が好きな私である。プラスもマイナスも私にはすべて良い学習の糧になる。相手だって、神仏でないし自分が生き伸びればよい。辛いかもしれないが、「許す力」も自分が生きてゆくには必要な能力とわかる。