連載コラム

「ー何故、私は書き続けるのだろう?ー」

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2023.10.21

 考えて見たら、人類の歴史で言葉が出来、字が出来て、印刷技術が出来て「記録する」という事が出来るようになったのは、さほど長くない。

 今は、もう「書く」事も少なくなり、キーを打つだけになって漢字の国の中国、台湾でも漢字は忘れられつつあると言う。

 日本でも日本独特のひらがな、カタカナ文字が有る。ローマ字というのもある。漢文はもとより忘れられて使われなくなる傾向だ。

 日本語自体が消えつつあると、国語の先生が嘆いていた。

 私は皆さんに、日記をつけることをお勧めして、特に仕事を引退した人々には、「自分史を書いて子孫へ残してください」と、お願いしてきた。

 実際何人かの人々が実行して下さり、読ませていただいて、どの人びとも「人はすべて素晴らしい!」と教えてくださる。

 生きているのは奇跡だと私は感じてしまう。

 メデイアでは楽しそうなことが沢山ある。歌って踊っておいしそうなものを食べて、ニコニコしている。そんな幸せそうな人びとを見せてもらっても、私はあまり感じない。おかしいのかな?

 自分は明日も生きていられるのか?不安で毎日お祈りして生きているのだ。私と同じように苦しむ人々も多いと知って、何とか手助けできないかしら?その間は自分の苦しさが忘れられる。という気もする。今カルテを読み返していると、本当に私の医術はレベルが低いと自認する。恥ずかしい限りだ。

 私に手が付けられなくって大病院へ送った症例も多い。有難いことに私の責任は外れて行った。

 半世紀以上医療界にどっぷりつかって、楽しい世界を知らない私でも、希望はある。出来る限り私の経験した、多くの人々の実際の経験しているのを書きとって、他の人びとへお知らせすることだ。

 辛い経験は当事者だと書いて他人に伝える気はしないだろう。

 「こんな症例もあったよ。考えてね?」というだけのことだが私にとって偉い先生の講義と違っていつまでも私の心に沈殿している。

 或る診療所へアルバイトに行っていた時だ。私もまだ子どももいないけど大学に在籍しながら夕方から民間の診療所に勤務する。

 木造の普通の二階建て一階で、私とY先生が向き合って机を並べている。彼は内科でやはり大学の医局に内緒で働くのだ。

 私よりずーっと年上でお子さんが二人8歳と5歳という。奥さんは産婦人科の医師で当時開業したばかりというのだ。

 そんなY先生にある時、電話がかかってきた。先生はびっくりした顔をなさって直ぐ事務室へ行きそそくさと帰ってゆかれた。

 その残り勤務時間を私が小児科、Y先生の内科の分までこなさなければならなかった。事はびっくりする話だった。

 奥さんが二人の子どもが発熱、当時よく使われた解熱剤の座薬を子ども達の肛門に入れ、そして寝かせておいたと言う。そして診察室で病人たちを相手にして、昼休みになり子どもの様子を見に部屋に戻ってみた。

 子ども二人とも呼吸が止まっていた。結局は解剖迄されたが、「特殊体質」という事で警察関係は片付いたと言う。

 医師である自分の母親の使用した薬剤で死亡した子どもたち。私も二人の息子を抱えるようになっていつもひやひやだった。いまだに私は解熱剤は怖くてあまり使えない。

 この症例以外でも技師になった子どもを診察していた経験が有るので、今は実熱、虚熱には気を使っている。西洋医学には全くない考え方なので、医師教育には日本の伝統的統合医学の教育をしてほしいと思う。日本には歴史があり経験があり本当の知識や知恵が有るのだ。

 エビデンスというからには「人を生かして欲しい」と思う。「病気をなくして人はいなくなった」というのではあまりにも悲しい。

 其の後しばらくして私はその診療所を退職したが、Y先生の事は忘れたことはない。