連載コラム

「-ジャンヌ・ダルクの映画を見て考えたこと。-」

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2025.05.15

 ジャンヌ・ダルクの名前を知ったのは、1952年頃、
学校の図書室で読んだ歴史物語の中でだった。
その時は「世の中にはすごい人がいるものだ!
私なんかは外すら怖いのに、軍人になるなんて。。。」と
感心した程度で、名前は覚えてしまったけど、
「自分に関係ない!」で終わった。

 第一に西洋の歴史は決まって「宗教」「戦争」
「王様」「貴族」そして「奴隷」という言葉が多く、
普通の市民の影は薄い。
その中で「宗教裁判」という言葉は
ソクラテスやガリレオ・ガリレイのように
「恐ろしい」裁判だとしか知らなかった。

 時が経って、年老いた私が相変わらず
同じ仕事でボケるのでないかと心配してくれる家族が
時々「ビデオ映画を見てみなさいよ」と届けてくれる。
沢山の芸術作品があると言うのだ。

 確かに科学技術は素晴らしい。
映画館へ行かなくても映画が見られるのはすごい。
そして今回は「ジャンヌ・ダルク」だった。
私が見たのは誰が映画監督で、いつどこで撮影されたのか?
私には全く分からない。

 映画を見て驚いたのは、昔の人は本当に
大変な生活だったのだと分かったことだ。

 そういえばドイツとフランスの国境付近の人で、
私の所へ来ていた人のお母さんは
「自分達はフランス人になったりドイツ人になったり、
その時で変わるのよね」というそうだ。
国籍なんかは人が勝手に決めてラベルを張り替えるだけで、
中身は変わらないというそうだ。

 それにしてもジャンヌ・ダルクは字も読めない文盲なのだ。
その時代15世紀初頭のフランスでは
田舎の少女達はそれが当たり前だったのだろうか?
兵隊達だって同じように、有力者にとっては消耗品、
使い捨ての道具に過ぎないようだ。
戦争自体が今から見れば技術的に幼稚だ。
飛行機もないしダイナマイトも焼夷弾だってない。
その時代の人々が21世紀の今の戦争技術を知ったら
度肝を抜かれる思いだろう!!

 戦争などは元々「有力者達の陣地獲りごっこ」
という人がいるくらいの事件である。
いつの時代もどこでも戦争を命令する人は
安全地帯に潜んでいる。
500年前のフランスの田舎娘で文盲の
ジャンヌ・ダルクが今の時代の人だったら、
「神のお告げ」と信じて力を使う集団に飛び込むだろうか?

 今の時代は「復讐は力を使っては成功しない」と
少しずつ知られてきた。
力ある人々は一般の庶民が言うことを聞かなくなる
「非戦、不戦、不服従」が怖くて、早いうちに
考える力を削いでしまおうと人体のロボット化を研究する。
宗教活動や自然科学の研究も総動員で
有力者のサポーターとなって保身に必死だ。

 本当の宗教活動とは何なのか?
本当の医療活動とはどんなものか?
日本の医療文化を学習するほどに、
西洋の失われた人々の魂のプラス部分が
日本に残っているという気がする。

 ジャンヌ・ダルクの純真な信仰心は、
火あぶりの刑で肉体は無くなったけど、
魂は世界に飛び散って、今の私達に
呼び掛けてくれている気がする。
私達はそれに答えなくてはならない。

 ジャンヌ・ダルクのように分盲でなく、
言葉の読み書きができ、学習できる力を持つこと。
何事も力を使っては解決できない。
一人ずつが利口になれるように学習を続けるだけである。

「ジャンヌ・ダルクさんのように処刑されたくありません」と
世界中の人々が心の中で決心するだけで、
ジャンヌ・ダルクの無念さは消えてゆくのだ。
歴史は私達に多くを伝えてくれている。