連載コラム

「-「高血圧」考 ~人の生活現場を離れての研究は本当の医療活動に役立つか?-」

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2024.09.04

 昔あるウイルス学者さんが書いた本を読んだ。
その言葉が今頃思い出されて、気になっている。

 この数年世界中で起こった新コロナ騒動だが、日本以外は
とっくに通過した問題が、集中的に日本では泥沼になっている。

 私は医療とは苦しむ病人を何の手段であれ、
少しでも楽にすることだと信じていた。
私自身が物心つく頃より病人だからだ。
難しい医学の研究は初めからお手上げだった。
自分の経験する苦しみを他の人にはしてほしくない。

 ウイルス学者が書いていたのは「いずれ高血圧症も
ウイルスによる疾患だとわかるはずだ。今は医学者の中で
納得する人はまだ少ないがいつかは理解される日が来る」
というような話だった。

 私は先がさほど長くないと自覚するので、
出来る限り許される範囲で自分が学習してきたこと、
経験してきたことを記録しておきたいと思う。
医療は経験の蓄積の結果だと考えるからだ。

①母がスープに苦しんだ日

 母が東京へ来て私と富士見台医院の新しいコンクリートの
建物で一緒に生活をしていた頃の話だ。母はまだ自分で
調理して自分で食べることが出来る時だった。
せいぜい60歳代後半から80歳代はじめのいつかだったと思う。

 私が夕方までの仕事を終わらせ2階の居間へと
上がるのはだいたい7時台になる。

 その日もいつものどおり2階へ戻った。
母が食卓の上で頭を抱えてうなっていた。酷い頭痛だと言う。
私はすごくびっくりして、すぐ血圧を測った。本当にすごい高血圧だ!

「降圧剤は飲んだの?」と聞くと「さっき飲んだ」と言う。
とっさに私は「ベラアロエの酢漬け」の酢を10cc水で薄め
ゆっくり飲んでもらいながら、母の後頭部から背中にかけて
下へ向かってマッサージをした。

 約20分ぐらいで母は「楽になった」と言う。
アロエを飲み始めて30分したので、もう一度血圧を測ったら
いつもの150台まで降りていた。

 私は母の作ってくれた夕食を食べながら、話を聞いた。
「急に鶏肉と当帰、クコの実、朝鮮人参、ハスの実、
ゆり根などにお酒とごま油少しを入れたスープが
飲みたくなったので作って、テレビを見ながら
おいしく食べていた。そしたら急に頭痛がして苦しくなった。
もう私も若くはないとわかったわ」とのことだった。

 老人に高カロリー、高滋養強壮の栄養たっぷりの食べ物を
食べさせてはいけないことくらいは知っている。
母は「母さん(私の祖母)もそれで死んだ」
「自分がもうそんな年寄りと思わなかったのよ」と笑うのだ。

「老人を早死にさせたかったら、若者と同じように食べさせろ」
と台湾では昔から言われるそうだ。
樹医師がいうように、樹齢に合わせて一本ずつ手入れが違う。
人の身体も同じ。人でもその時に合わせて手当てする以外ないのだ。

 その後、私は母のカルテを書きながら、刺絡も良かったかも、
漢方薬を飲ませたほうが良かったかもしれないと考えたが、
結局ことも無く収まったので、そのままで終わった。

②真夜中の救急患者

ある日の夜中、いきなりある市のトップの人から電話があった。
「苦しいので診てくれ!」という。すぐ東診療所へ来てもらった。

「仕事が終わり帰宅して遅い夕食になったが、食べた後
ひどい頭痛がするし吐き気もする。血圧を測ったらひどい
高血圧の状態だ。助けてほしい!」と言われた。

 その時も私はベラアロエ酢を数cc水で薄めて
ゆっくり飲んでもらった。そして話を聞くことにした。

今まで何ともないのだから高血圧になる理由はあるはずである。
私は「腹膨るる状態でないか?」と疑った。
「しゃべりたくてもしゃべれない」という事はよくある。

「その日の夕方、急に国政のトップと都政のトップとが
いきなり市役所へ来た。自分の市だけでなく、日本全国
大都市は全てこの人々の話を聞かねばならない。
そして話を聞き終わって帰宅した」と言う。
その話の内容がショッキングなのだと言う。

 市のトップの人はぽつぽつと話をしてくれた。
私にしたらもうとっくにそのようなことは予想できるので、
驚きでないが「分かりました。政治は本当に大変ですよね。
お疲れ様です。でも成るようにしかなりませんから、まず
ご自分とご家族優先に考えてください。」と頼んだ。

 もう一回血圧を測ったら、もうほぼ正常値だ。
その人の身体、生活に合わせて一か月分の漢方薬を処方した。
普段の食養生や自分で出来ることを
自家カルテに書いて帰ってもらった。

 公的な仕事をする人々は本当にご苦労様である。
人には「しゃべりたくてもしゃべれない」ときはよくある。
私が子ども達やご両親に「日記を書く習慣を
身に付けさせてください」と言い続けていたのも、
それぞれの人の生命を守るためだ。

 私はしゃべり過ぎだと言われるが、経験の半分も
しゃべらない。それで生きている。

 人は10分先は生きていられるか誰にも保障はない。
そんな症例を何例も見てきた。生きていること自体が奇跡で、
感謝以外ない。「幸せだ!」と思っていたのがいつ逆転するか
わからないのだ。だから何が有ってもびっくりしないように、
木鶏のごとくに生きる努力をするだけだ。

 私は子どもの頃よく学校で倒れた。
低血圧で子どもの「起立性障害OD」と言われていた。
30歳代から40歳代までは時折エホチールという
血圧を高くする薬を飲むこともよくあった。
他にも色々薬を飲まざるを得ないことが多々あったのだ。

 50歳代でやっと血圧の方は落ち着いてきたが、
他の健康上の問題でやはり病院通いから離れることが出来ない。
そんな身体的に不利でも仕事はせねばならない。

③私自身の経験

 ある日診察がやっと終わったと富士見台医院の
表玄関のカーテンを閉めた。すると急に吐き気がして
頭が割れそうなほどの頭痛になった。

 急いでいつもお世話になっている病院へ連絡した。
入院も覚悟である。すぐ個室へ入れられ院長が病室へ来てくれた。

「頭蓋内出血」絶対安静だ。
「すぐ飲みたい処方を言いなさい。持ってきてあげますよ」
と主治医になってくれたM先生が言う。私は
「漢方薬のあれとこれとお願いします」と自分で
処方名を言って、この時すでに吐き気は止まっていたので
お茶だけ頼んだ。

 思えばもう数か月前から後頭部をバットで
殴られる感じがしていた。入院して寝ている間に
後頭部がぶよぶよとしているのに気が付いた。

 私は元々紫斑病で血小板が非常に少ない。
骨髄検査マルクは5回も受けていた。
苦しい検査でそれ以上は病院からの呼び出しにもいかなくなった。
自分で適当に治療すればよいと考えていたのだ。

 院長は「仕事が多すぎるというのも医師としたら失格だよ。
生きていなくては意味ないからね」と言ってくれた。

 入院時の血圧は上は200以上、下も100以上ある。
私が倒れた頃、東京都内と千葉県で小児科の女医さんが
脳出血で即死というニュースがあった。
私はふと「いつもこまかい血管から出血しやすいので、
太い血管が切れずに済んだ」のでないかと内心
紫斑病で良かったと感謝したのだ。

 何日か個室にいて、次は大部屋へ移りさらに一週間。
それから退院となった。

 退院後2か月は休みなさいと言われ、自宅で
「今後どうしようか」とあれこれ考えた。
私もいつ何が起こるか分からない。その後私の患者さんが
困らないようにするにはどうするか考えてしまった。
私も死にたくないし、夜中に起きるのも少なくするには?

 考えた結果、新しい出発として保険医を辞めて自費診療にして、
患者さんにカルテを渡し自分はコピーを持つことにした。
これを「自家カルテ」と呼んでいる。

 仕事も少しは楽になり、お陰で血圧は落ち着いてきた。
西洋医学の降圧剤は服用せずにだ。
その後も私は病気とは付き合い続けている。


 私の学習結論は、病人は生きている限り刻々と変化している。
しかも同じ人はいないので、医療者というのは各個人のことは
理解しきれないのだ。

 親子だってもう肉体的につながっていないので、
お互い完全に理解できない。それでも一緒に身近で
生活をしていれば少しはわかるけど、
病人と医療者の関係はもっと距離がある。

「血圧」の変動は生体として自然な反応の結果でないか?
血圧が変動することで人はその時々に合わせているのだと思う。
高血圧であろうと低血圧であろうとその人の身体の結果である。

 一人ずつが自分が体調良く生活できるように
養生、食養生する以外ない。どの程度の血圧が
自分に良いのか? 本来は個人差があるはずである。
そう考えれば降圧剤も良し悪しだと思う。

 高血圧がウイルスによるのかどうか私にはわからないが、
少なくとも私は血圧問題は自然現象、生体反応で
自分で整えるのが良いと思っている。

 基本はやはり過重のストレスを受けないように、そして
ほどほどの運動と食事でコントロールが一番良い気がする。

 ウイルスなんて見えないので、いるかいないか私にはわからない。